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元中日の川上憲伸投手が引退、右肩回復せず

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2015年オフに中日ドラゴンズを退団した川上憲伸投手が19日に引退を発表しました。ジャイアンツキラーとしてセリーグを盛り上げ、メジャーにも挑戦した右腕も怪我には勝てませんでした。

 

川上憲伸投手の功績を紹介します。

 

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高校時代-大学時代

生年月日は1975年6月22日、徳島県徳島市出身、右投げ右打ち。

 

徳島商業高校時代に4番とエースを務め、甲子園の準々決勝まで進出しました。

 

高校卒業後は明治大学に進学し、大学でもエースを務めます。

 

4年生の時には主将にも抜擢され、リーグ通算57試合登板、28勝15敗、防御率2.14、311奪三振、ベストナイン3回と素晴らしい成績を残しました。

 


1997年のドラフト会議直前に星野仙一監督の率いる中日ドラゴンズへの逆指名を表明して注目を浴びます。

 

その後のドラフト会議では、中日が川上の単独1位で交渉権を獲得。契約金1億円、出来高払い5000万円、年俸推定1300万円という条件で入団します。

 

中日時代


1998年、公式戦の開幕から、一軍の先発ローテーションに定着し、14勝6敗という成績でセリーグの新人王に選出されました。

 

翌、1999年には開幕投手に抜擢されます。

 

この年、チームはリーグ優勝を果たし迎えた日本シリーズでは川上投手が唯一勝ち星を上げて敢闘選手賞を受賞しました。

 

その後、数年間は急性感音性難聴を患ったり怪我が続き思うような投球が出来ずに負けが先行してしまいますが、2002年の8月には対巨人戦でノーヒットノーランを達成します。

 


2004年にはリーグ最優秀選手、沢村賞など合計9つのタイトルを獲得し、リーグ優勝に大きく貢献しますが、再び日本一は逃してしまいました。

 

2006年には史上120人目の一軍公式戦通算1000奪三振を記録しました。

 

シーズンを通して安定したピッチングで17勝を上げ自身2度目となる最多勝の他、最多奪三振のタイトルを獲得しました。

 

迎えた日本シリーズでは再び日本一を逃してしまいますが、川上自身は2度目の敢闘選手賞を受賞しました。

 

翌、2007年には史上124人目(チーム史上9人目)の一軍公式戦通算100勝を達成、レギュラーシーズンでも4年連続の二桁勝利を達成しチームに貢献しました。

 

この年、ついにチームは日本シリーズを制して日本一に輝きました。



メジャーに挑戦


2009年にアトランタブレーブスと3年契約を結び、メジャー移籍が決まりました。

 

デビュー戦のワシントンナショナルズ戦を6回4安打3失点8奪三振で抑えて勝利投手で飾りました。

 

その後はチームの控え野手が尽きてしまい日本人メジャー投手として初めて代打で起用される珍事件も起きました。

 

しかし打ち込まれる事が多く、シーズン後半は先発ではなくリリーフに回りました。

 

リリーフへ回ってからは安定感を発揮し、防御率も2.63と安定したピッチングでしたがシーズンが終わってから右肩に違和感があったことを明かしました。

 

翌年も開幕から先発ローテーション入りしますが、打線の援護にも恵まれず負けが続き、8月にマイナーに降格になりました。

 

その後も調子は戻らず11月には傘下のAA級ミシシッピに降格しました。

 

2011年もAA級ミシシッピで開幕を迎えますが、右肩の痛みが悪化してDL入りします。その後も右肩が治らずシーズンオフにFAし、古巣の中日に戻ってきました。

 


以前の鬼気迫るピッチングは戻らず2015年に退団、右肩の治療に専念しますが復帰の目処が立たず引退になりました。

 


 

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